昭和五十六年十一月四日 朝の御理解
御理解第六十三節
一粒萬倍と云はうが一人がおかげを受けたので千人も萬人もおかげを受けるやうになるから善い手本になるやうな信心をせよ
最近合楽で云われます合楽教会信奉者としての責任においての御用。その御用が信心を育てるのだということが云われます。御信者の皆さんにそういうからには、例えば取次者私としても、御信者の一人一人に責任においてのお取次が出来なければならんなあと今朝から思わせて頂いたんですけれども、神様はそうではないというて下さったが皆さんどういうふうに思いますか。信者だけには責任においての御用、取次者私としてはね、責任においてのお取次ぎをそこに感じるような取次ぎ者にならなきゃならんのだろうと云うふうに思うたら、そうではないと。ここで私が責任を感ずるようではほんなもんじゃない。責任は金光大神がとって下さるのであり神様がとってくださるのであり、ねおかげを受ける受けないは信者の信心ひとつなのであって、ね例えば合楽にお参りをさせて頂いてまあ一生懸命信心させてもろうてお願いしたけれども失敗に終わったとか、まあ死んでしもうたとか、まあ普通で云うならおかげをを頂ききらじゃったという用なことになった時に、それを一人一人取次者である先生達が責任を取らなんじゃったら大変な事ですよね。
ねだからね、皆さん一粒万倍と今日は云われる、その一粒万倍のおかげを頂けるような信心とは、ねおかげを頂き得ないのは私の信心が足りんのだと思はにゃいけんです。ねそこからの信心、そこから開けた信心、そういう信心で半ら泣ければ一粒万倍というような生き生きとした種にはならないです。親先生のお取次を頂いて、あれも成就したこれも成就したとおかげを受けたと行ったようなおかげはではねそれは生きた種にはならんですね。
これはまあ私の事を云うならばお神様を私の部屋に奉斎し、普通は神様と霊神様ですけれども石の端にもう一つ霊神様と同じ神様がお祭りしてあります。
それは私が御縁を頂いた三井教会の初代教会長の霊と二代教会長荒巻久人大人の霊です。御大祭のとき、あれはたしか四神様のお祭りの時にお祝詞の中申しますように、助けられた。”初代に助けられ二代に育てられた”とあります。たしかに私が一家は初代のおかげで助かった。なら、私なら無い命を何回も助けて頂いた。二代の荒巻先生はまあの信心によって私は育てられた。なら私は二代の荒巻久人先生のお取次ぎを頂いてどういう結果になったかというと、もうにっちも察知(どうにもならないの意)もいかないようになったのですからね。だから本当に親先生のお取次ぎを頂いてからこげんなったとまあ金光様もあてにぁならん、先生責任をとってくださいとまあ云いもせん思いもしませんけれどもといったような事であったら今日の合楽はないです。
ねこれはまあだこちらの信心が足りんのだと、そこからの精進がなされた時に、私はいよいよ私自身が助かり出し、私自身じぁ無いその周辺が助かり出し、そして今日の合楽教会です。だからよくその取次者としてね、信者がお願いしてもお願いしてもおかげを頂かん時に、はあ自分の信心が至らんからとまあ反省をしたり責任を感じたりするような事がありますけれども、そういう事に責任を感ずるというような事じゃなくてね神様の御神意御神愛というものはそんな小さい物じゃない。問題はこちらとしては私としてはもう空しゅうなる以外にはない。神様の働き金光大神の取次の働きというものを信じていけばよい。
ねこれはまあ私の例が一番適切だと思うですよ。ね初代に助けられ二代に育てられと。ね所が合楽の場合は、それがどういう事になるかというと、より本当な事からより本当な事への追求であって、お互いがその教えられる信心を本気で日々行じないと取り残されてしまうですね。
昨日は恒例の柿狩りでした。長瀬さんの柿山でここで丁度昨日いつも三日が梅の実会、それから丸少が集まりとりますから丸少。そすとまあ長瀬さんの総代仲間の方達が集まって毎年あります。で丸少のリーダーが皆に柿狩りに行って何か俳句でも作ってくださいというて紙を皆に毎年配りますから、皆それぞれに面白い子供達も皆、全然俳句の道がどういう道か分かりませんのにあのう作るのですから実に面白い句がたくさん出けとりました。私も五、六句作らせて頂いた。私も全然俳句なんかて勉強したこともないしただ字数がこう揃えるというだけの事でございますが昨日は勿論車でですけれども、耳納連山の一番最高峰と云われる鷹取に上らせてもらいました。あそこが一番、そこで一句出来ました。
これよりは星野路とあり黄櫨紅葉(はぜもみじ)
というような句のようであって句ではないと思いますけれども、ちょうど鷹取の頂上に行った所のそこん所へ三差路、あそこが三差路ですかね、星野の方へ行くのとこう吉井の方へ下るのと両方あります。これからはもう星野路はっきりそこに示してある。ははあ親先生が柿狩りに行ってから鷹取まで登ったばいなあとね、そこにはいうならば点々としての黄櫨の真っ赤に高揚したものがあったりね、
穂すすきの中に・・・・・なんじぁったかな?兎に角俳句らしいものが五、六句出来たですけれども例えて今の句から申しますとですね。もうこれからは星野路だとはっきりそこに明示してあるのです。迷わんですむように。
合楽ではこうすればお徳が受けられる、こうすればおかげが受けられる、しかも高度な表現内容を持ってもう間違いのないことを皆さんに伝えておるです。ほとんどの例えばなら今日私は、私の例を申しましたけれども、私どもが行き詰まってもうどうにも出けなかったと云う時にはです、ただ右にしたらよいですか、左にしたらよいですかというあのうものじゅないです。信心をですどうしたらよいかということをはっきり教えるのです。ここでは、先生任せになりぁすりぁよかというのがただ自分が便利の為にですね右にしたらよいですか、左にしたらよいでしょうかと、そういうことではないです。教えそのものがこういう生き方をすればお徳が受けられる、力が受けられる、必ずおかげになるという教えを。
もうこれからは、という所があるのです、ね それをこちらへいけば星野路であるとちゃんと書いてあるのに、吉井の方さえ下っとったちゃどんこん出けんじぁない(まるでできないの意)。ね反対の方に行ってしまう。そういう時にです私はいよいよ力を受ける、その力そのものが私は一粒万倍という事になる。ただ親先生にお伺いして右か左かを決めていくと、これはひとおつも力になる所か反対に自分の力はなくなっていきますよ。
ねただ神様を便利屋さんに使おうとるようなもんですから、ねけれども私どもはわかりませんから、なるほどお伺いもしていきますけれども、問題は信心をかくあれとはっきり明示されるその信心そのものに取り組まなかったらいつまで、いわゆる星野行しようと思うとるのに吉井さえ下ってしまうというような事にしかならんのです。そこんところに私は力を得られるというふうに思います。人の手本になるような信心とはそこからだと思うです。ねそしてならおかげを頂いて初代に助けられ二代に育てられとなら私も有難いならね、私を育てて下さった二代先生も行きてくる事になるのです。
ね昨日の御理解の中にもありましたように例えば私共のバックにはですねそれこそもうこれより以上の金屏風はあるまいと思うような金屏風が立っとる後に、ねだからそのきんびょうぶがはれるようないわば御用の姿というものがここでは私自身なからなきゃならない。ね 私もはれるなら後ろの金屏風もはれる。合楽に御縁を頂いて皆さん達がお徳を受け力を受けて下さることによってですね、皆さんもおかげを頂かれるならば、云うなら合楽教会も又取次者私も栄えることになるのです。おかげを落としては神は喜ばぬとおっしゃるがね、それは云うならば神様に対しても相すまん事になります。そのおかげとは、一粒万倍と云われ思われるようなおかげの事を云うのじゃないでしょうかね。 どうぞ